幕末と福井の熱い関係

2014年7月19日 (土)

★ … 「幕末の福井力」というテーマで講演してきました。

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土曜日は芦原温泉に出掛けて、ある企業の創立25周年記念式典で講演してきました。テーマは「幕末の福井力」。幕末という歴史の転換点に、福井の大名たちがいかに深く関わっていたのか、その活躍について(ある意味で浮き沈みについて)話しました。250人近い人を前に話すのは久しぶりでしたが、躍進中の元気の良い会社の人たちを相手にすると、打てば響くようなところがあって楽しいですね。

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幕末……江戸幕府は、大雑把に言えば、幕府は二つのテーマで大きく割れていくわけです。一つは14代将軍を誰にするか、もう一つは、開国するかどうか、を巡って。その路線闘争の中、大老に就任して開国に舵を切った井伊直弼は強権をもって反対派の排除に乗り出します。それが有名な「安政の大獄」ですね。そして、その下で実務を担ったのが、老中・間部詮勝(鯖江藩主)、京都所司代・酒井忠義(小浜藩主)という、福井の大名二人でした。それに対抗したのが、いわゆる一橋派。中心は前の水戸藩主の徳川斉昭、福井藩主の松平慶永(=春嶽)です。つまり、幕府の中で福井の大名たちがぶつかっていた……幕末はそんな時代だったのです。


「安政の大獄」の犠牲者としては、吉田松陰が処刑されたことはよく知られていますが、福井藩もエースの橋本左内が処刑されるという事態に直面しました。元は小浜藩主だった梅田雲浜も獄死しました。その事実から、彼らの存在感が大きかったということが解ります。事態はその後、いまなら「首相暗殺」に相当する「桜田門外の変」で井伊が暗殺されたことで立場が逆転。春嶽が復帰する一方、井伊の下にいた間部、酒井は冷や飯を食うことになる…。いずれにしろ、この時期ほど、福井の人たちが中央政界で活躍していた時期はないのです。


しかし、春嶽の存在が独り大きかったからでしょうか(後に大老に相当する政事総裁職に就いたくらいですから)、福井では、そういう視点で幕末が語られることは少ないようです。春嶽、左内、由利公正の功績といったものばかりに光が当てられてますね。また、小浜藩も会津藩ほどではないにしろ、鳥羽伏見の戦いまで佐幕派の中核として頑張っていたのですが、その悲劇が“小さかった”ことで彼らの奮戦についても語れることが少ないですね。これからはそういったことも含め、機会があれば、福井と幕末の関係について語っていきたいと思っています。



2013年3月25日 (月)

★…連続ドラマあれこれ


 1月からスタートした連続ドラマたちが終わり始めました。民放の場合、東京と福井では放送時間などが違っていて1週遅れの放送ということもありますが、最終回が先週、今週というのが続いています。TBS系でいうと、「とんび」と「ハンチョウ〜警視庁安積班〜」が最終回でした。中でも「とんび」は17日の最終回の(福井では24日放送ですが)関東地区の平均視聴率が20.3%と、今年放送の民放連続ドラマの最高視聴率を記録するほどの人気だったので、福井でも見ている人が多いでしょう。

 父親役の内野聖陽の、取って付けたような大げさな演技が私は苦手なのですが、ベテラン麻生祐未(たえ子役)の落ち着いた演技がドラマを引き締めていたし、野村宏伸(照雲役)が一皮剥けた演技を見せていたところは「買い」でした。一方の「ハンチョウ〜警視庁安積班〜」は、安積役の佐々木蔵之介をはじめ、結城役の比嘉愛未、小池役の福士誠治、真山役の高島礼子、丸岡役の六平直政、木村役の加藤夏希たちという顔ぶれに深みを感じないのですが、最終回では徳さん役の金田明夫、水沢先生役の橋爪功、川口刑事部長役の里見浩太朗が重厚な演技を見せていました。年期が違うというか、さすがです。

 演技と言えば、1月スタートの連続ドラマで最も印象に残っているのは、「いつか陽の当たる場所で」の上戸彩、飯島直子です。二人ともこれまでとはガラッと変わって地に足の着いた感じで、私の中では過去最高の演技です。最高の演技と言えば、父親役の前田吟は相変わらず味のある演技です。期待してなかったのに私の中での評価が上がったのは藤田朋子でしょうか。彼女の場合、これまでドラマに恵まれなかったのかもしれません。

 それとNHKと言えば、大河ドラマを忘れるわけにはいきません。今回の「八重の桜」はなかなかです。ただ、昨年の「平清盛」も私の中では評価が高いので、最後まで観てみないと、という感じがあります。脇役は大河らしくバッチリなのですが、山本覚馬役の西島秀俊、川崎尚之助の長谷川博己の二人がまだしっくりきません。ポッと出のアイドルが人気で起用されたというのならまだ解りますが、かなり芸歴がある割に二人ともどこか重心が高い感じです。

 逆に今回の「八重の桜」での大発見は、松平容保(まつだいら・かたもり)を演じている綾野剛です。こんなに表現力を持っている人だとは知りませんでした。これから注目していきたいと思います。他にも意外な発見があって、その一人が覚馬の嫁を演じている長谷川京子です。ただ綺麗な嫁ではなく、どことなく心許ないイメージがあるこういう役も出来るのだと初めて解りました。似たような感じを持ったのが、これまでのイメージをガラリと変えた相武紗季です(テレビ朝日系の「おトメさん」の李里香役)。どちらも美人というだけでなく、ようやく女優という土俵に登ってきた、そんなイメージを持ちました。

 ところでこの「八重の桜」の後、日曜日はフジテレビ系の「dinner」が放送されていて、これもきのう最終回でした。イタリアン・レストランを舞台にしたドラマで、江口洋介が仕事中毒でオタクで、加えて、毎回ぶっきらぼうで切れの良い台詞を吐くシェフを演じています。江口演じるシェフは「救命病棟24時」シリーズの進藤先生役のイメージそのもので、それをコメディタッチに置き換えた感じの人物像、それだけに違和感があまりありません。

 その脇を、「八重の桜」では八重の父親を演じている松重豊を筆頭に、ユースケ・サンタマリア、八嶋智人、志賀廣太郎ら芸達者が固めていて手堅いこと、いかにもイタリア風な
音楽が動きによくマッチしていました。音楽で言えば、「八重の桜」の音楽も、テーマこそ坂本龍一の作曲ですが、それ以外の音楽は中島ノブユキが手がけていて、一聴したところモーツァルト風のテイストです。それがいつもの大河と少し違ったイメージを与えています。音楽はやはり大事です。

 「八重の桜」は24日の放送が「蛤御門(はまぐりごもん)の戦い」でした。長州藩兵が御所を攻めますが、「蛤御門」の南側にある「堺町門」は越前(福井)藩兵が守っていました。藩に残る当時の資料によると、長州藩兵らは門からの進入を図ったが突破出来ず、その東隣にある鷹司(たかつかさ)邸の生垣を乗り越え、福井藩兵と邸内の長州藩兵との間で撃ち合いとなったとあります。そこに運ばれてきたのが会津藩の大砲で、それで表門を破壊してそこから邸内に攻め込んだそうです’(放送の中にあったあの場面です!)。

 この攻撃で、立て籠もっていた久坂玄瑞(くさか・げんずい)は自刃します。その後、屋敷に火が掛けられますが、彼以外の入江九一ら8人の名は終戦後に藩主の許可を得て、福井藩の菩提寺でもあった上善寺に「長州人首塚」として葬られています。ちなみにこの時、福井藩兵を指揮していた軍監の村田巳三郎(氏寿)は、両足を撃ち抜かれ、心臓の上にも銃弾を打ち込まれ、それを手術で抜く重傷を負っています。この戦いの後、幕府はいわゆる「長州征伐」を行いますが、越前(福井)藩主の松平茂昭(まつだいら・もちあき)はその副総督を務めます。幕末の福井藩の存在感、こうした事実を観ても解りますね。

2012年10月31日 (水)

★…「ニウスな夜」第11夜は「幕末・福井劇場」でした


 アップが遅れました。先月24日、25日に行った「ニウスな夜」第11夜についての報告です。今回はニュース解説のスタイルを離れ、「幕末・福井劇場」というテーマでしたが、それ故か(!)1日目はなんと過去最高の14人、2日目は7人の出席でした。




 幕末と言えば、誰でも思い浮かべるのが薩長と坂本龍馬たち勝ち組の活躍、そして幕府側の新撰組や白虎隊の悲劇です。ところが、幕末こそ、「福井人」たちが政治の中心で最も活躍した時期だったことは福井の人間たちもあまり知りません。明治以降、勝ち組にばかり光が当たってきたからで、福井藩や小浜藩が幕末の重要なプレイヤーだったことはすっかり忘れられています。そこで幕末期の福井の動きをもう一度見直してみたわけです。




 では、幕末期には、どんな福井人たちがいたのでしょう。

 まず、福井藩主の松平慶永(よしなが、=春嶽)です。その慶永は優秀なブレーンを抱えていました。政治顧問の横井小楠(よこい・しょうなん)を筆頭に、中根雪江(なかね・せっこう)、由利公正(ゆり・こうせい)、橋本左内(はしもと・さない)がいました。これが当時の「チーム福井」です。横井は肥後(熊本)藩からスカウトして招いた人物で、その近代的な思想は、坂本龍馬はじめ、幕末の志士たちに大きな影響を与えました。中根は慶永の側用人、由利は坂本と親しく、橋本は薩摩藩の連絡役だった西郷隆盛と繋がっていました。

 その一方で、大老・井伊直弼(いい・なおすけ)の幕閣として活躍した人もいます。鯖江藩主・間部詮勝(まなべ・あきかつ)、小浜藩主・酒井忠義(さかい・ただよし)の二人です。ともに二度目なのですが、間部は老中となり、酒井は京都所司代に就任して井伊を支えました。

 井伊は大老に就任すると、幕府にもの申す人たちの粛正に取り掛かりました。それがいわゆる「安政の大獄」です。間部がその実行に当たる形で作戦は発動され、「チーム福井」は攻撃が加えられました。慶永は隠居謹慎、橋本は捕まって処刑されました。この時、元・小浜藩士の梅田雲浜(うめだ・うんぴん)も捕まって獄死します。酒井に嫌われて小浜藩を追われた梅田でしたが、朝廷工作に暗躍して、朝廷を尊皇攘夷に転換させる上で重要な役割を果たすわけですから、歴史とは皮肉なものです。

 その井伊体制は、井伊が「桜田門外の変」というテロに遭って崩壊します。そして、復活なった慶永は、以前にも増して国政の中心で活躍するようになります。後に15代将軍となる一橋慶喜(ひとつばし・よしのぶ)が将軍後見職に就任すると、政事総裁職(以前の大老ですね)に任命され、公武合体運動の中心人物となっていきます。薩摩藩の島津久光とは同盟関係に近い強固な結び付きを持ち、土佐の山内豊信(とよのぶ、=容堂)らと並んで政治の中心で活躍したのです。




 長州藩が外国船への攻撃を始めると、福井藩はなんと、14代将軍将軍・家茂(いえもち)が滞在している京都を軍事力で制圧しようとする「挙藩上京計画」を立てます。軍事力を背景に、朝廷と幕府双方に「各国の公使を京都に呼び寄せ、将軍、関白が外国人の意見を聞き、その上で明らかとなる“道理”に基づいて鎖国、開国、和戦を決めるべき」ということを呼びかける、という大胆な計画でした。立案したのは横井です。

 後に「薩長連合」を結んで薩摩と長州は倒幕へと向かいますが、この時はまだ、長州は攘夷を叫ぶだけの跳ねっ返りものでした。むしろ福井藩こそ、当時は薩摩藩のベストパートナーで、この「挙藩上京計画」にも薩摩藩の協力が織り込まれていました。しかし、実行直前になって家茂が離京するなど状況が変化したことで実行を躊躇い、結局は中止されてしまいます。深く失望した横井が福井を去ることになりますが、小楠は福井を去りましたが、薫陶を受けた由利公正は「議事之体大意」を書き、それが「五箇条の御誓文」の元になりました。

 明治維新がなって、幕末のキーワードは「薩長土肥」になりました。幕末期を担ったのが、薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前(佐賀)藩だったと言っているわけですが、これは、いわゆる“結果論”です。当時の実態を言えば、江戸に代わって政治の中心となっていた
 京都の治安を守っていた会津藩、そして福井藩の存在の方がずっと大きく、現実に重要な役割を担っていたのです。「チーム福井」がこれほど政治の中央にいたのは、後にも先にもこの時だけです。

 ところで、「安政の大獄」の時、鯖江藩は井伊側にいて、福井藩を弾圧する方に回りました。幕府の仕事ですからそれも仕方ないのですが、とはいえ、地元の福井の人間の間では複雑なものがあるのではないか、という疑問がありました。その疑問に答えてくれたのが、2日目出席の船津神社の橋本政宜宮司(東京大学名誉教授)でした。宮司の話では、一昔前は、福井の人の前で鯖江の人間だというとちょっと嫌な顔をされるようなことがあったらしいのです。宮司の話はどれもとても面白く、鯖江藩のとっておきの話もたくさん出ました。参加者は大喜びです。こういう出会いは本当に楽しく、実に充実した時間になりました。

2011年11月 3日 (木)

★…連載:幕末と福井の熱い関係[1]鯖江藩主・間部詮勝


 幕藩体制の江戸時代、今の鯖江市を中心に鯖江藩5万石がありました。藩が出来たのは1720年(享保5年)のこと。越後・村上藩主の間部詮言(まなべ・あきとき)が鯖江に移封されて誕生しました。詮言(あきとき)の兄の詮房(あきふさ)は、6代将軍・徳川家宣の側用人に登用されて大名にまで上り詰めますが、家宣の子・家継が亡くなって吉宗が将軍に就任すると失脚。詮言(あきとき)はその流れで村上藩から飛ばされた格好です。

 しかし、そんなトホホな大名も、7代目の藩主・詮勝(あきかつ)は幕末期に老中首座となって重要な役目を担います。詮勝(あきかつ)が藩主になったのは、1814年(文化11年)。時の11代将軍・家斉の側近として奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代などを歴任します。その後、西丸老中に。しかし、天保の改革を行っていた水野忠邦から、奢侈好みだった家斉の最晩年の側近だったと疎まれて老中を辞任します。

 ところが、1858年(安政5年)、井伊直弼(いい・なおすけ)が大老に就任すると、再び幕閣に登用されました。小さい藩の藩主ですから大抜擢なわけで、彼に能力があった証拠でしょう。勝手御入用掛(財政担当)と外国御用取扱(外交担当)を兼務、さらにその後、勝手掛老中に登用され、朝廷対策、日米修好通商条約の調印など外交問題を担当。そして、あの有名な「安政の大獄」では主役の井伊の重要な脇役の一人となります。その活動ぶりについては、「週刊ポスト」で井沢元彦さんが連載『逆説の日本史』がこのところずっと書いていました。そのことを早くお伝えしようとして遅れてしまいました、すいません。

 「安政の大獄」で、井伊は反対派の一橋派や尊皇攘夷派を徹底弾圧します。そして、それで長州藩士の吉田松陰(よしだ・しょういん)をはじめ、福井藩士の橋本左内(はしもと・さない)、小浜藩士の梅田雲浜(うめだ・うんぴん)は処刑されてしまい、福井藩主の松平慶永(まつだいら・よしなが=春嶽・しゅんがく)も隠居謹慎を命じられました。その苛烈さを評して、「井伊の赤鬼」、「間部の青鬼」とも言われます。

 その恨みを買ったせいでしょうか、明治維新を迎えた後、鯖江藩と藩主・詮勝(あきかつ)はあまり取り上げられなくなります。学校でも教えられた覚えがありません。幕閣という仕事とはいえ、福井藩に苛烈な処分を下す一翼を担ったことが、その後の詮勝(あきかつ)の評価に災いしたのでしょうか?



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