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2013年6月18日 (火)

★…赤星住職との再会


 福山を離れた後、熊本県荒尾市に入りました。荒尾市は福岡県に隣接する街で(人口約55000)、隣は福岡県大牟田市。その大牟田市と共に、有名な三井 三池炭鉱で栄えた熊本側の街です。市内にはいまも万田坑(坑道に潜るための基地ですね)の建物が残り、大牟田側の遺構と合わせて世界遺産への登録を狙って いるそうです。また、一昨年末に廃止されるまで、市内には競馬場もありました。



 さて、その荒尾でさっそく音楽絡みの仕事済ませた後、ある人を訪ねました。その人とは、真言宗法雲山金剛寺の赤星善弘・名誉住職住職です。御年80歳。 かつて住職の元を訪れたのが1992年の春頃でしたから、実に21年ぶりの訪問でした。もちろん、突然の訪問ですから不在覚悟です。しかし……。運良く、 住職との再開を果たすことが出来たのです。


 21年前、私は取材で住職の元を訪ねました。当時、私は横浜総局から社会部に(いわゆる事件記者系のセクションです)異動になったところ。古巣の産経新 聞はその夏の8月15日の紙面で、いわゆる「戦時中の中国人の強制連行問題」を取り上げることになり、いきなりその担当を命じられたのです。それから毎日 資料と睨めっこが続き、大牟田市と荒尾市の19カ所の収容所で作業中の事故などによって中国人と朝鮮人約700人が死亡していることが解りました。そし て……。命を落とした中国人、朝鮮人を供養していた赤星住職に行き当たりました。




 住職は1972年(昭和47年)、中国人犠牲者の供養のための「中国人殉難者慰霊之碑」、朝鮮半島の犠牲者を供養し平和的な南北統一に願いを込めた「 不二之塔 」を建立。それ以来、毎年4月12日に慰霊祭を行ってずっと供養を続けています。また、2001年1月26日、JR山手線「新大久保」駅のホームから誤っ て線路に転落した見知らぬ人を助けようとして命を落とした二人、韓国人留学生の李秀賢(イ・スヒョン=当時26)さんとカメラマンの関根史郎さん(当時 47)たちの供養も続けていて、今年も1月21日に十三回忌の法要を行っています。そう、住職は「志」の人なのです。


 取材の時、住職が言っていたことはいまだに強く印象に残っています。太平洋戦争が始まる前の1940年(昭和15年)頃から、連れてこられる中国人、朝 鮮人が増えたこと、虐待に堪えかねて逃亡する人間がいたこと、空腹を凌ぐために有明海の貝を掘って食べていたこと、そんな彼らに母親がハブ茶を振る舞って いたこと…。子供心に住職が感じていたことをたくさん聞き、また、当時の状況を知る人たちを紹介してもらって、順番に当時の話を拾って回りました。




 久しぶりの再会でしたが、住職はいまなお意気軒昂です。67年から有志の僧侶を伴い、慰霊碑建立の趣旨書を持って広く熊本県下を回り、托鉢をして浄財を 集めて歩いていますが、まだ日中国交正常化前です。当時は中国は「中共」と呼ばれ、日本は親台湾政策を取っていました。加えて、荒尾は三井三池のお膝元。 歴史の事実を伝えることはイコール、三井鉱山の古傷を暴くことですから、托鉢中に石を投げつけられたり、嫌がらせや脅迫も相次いだそうです。しかし、それ でも挫けなかった。そうした行動を支えたのが、「金にならない経を詠め」という師匠の教えだったと振り返ります。


 資金のめどが立ったところで、住職は有志9人でいきなり当時の澤田一精・熊本県知事を訪ねます。アポなし訪問。しかし、澤田知事は時間を割いて会い、そ して様々な障害がある中、72年4月の除幕式に代理ではなく、自ら出席。その行動に勇気をもらった、「出会いが人を変える」と住職は振り返ります。ところ が…。その年の秋に日中国交正常化が実現すると、「住職には先見の明がある」と掌を返したような人が続出。世の中、そんなもんかと呆れたと住職は大笑いで す。慰霊祭は一人ひとりの小さな勇気が集い、今年の慰霊祭にも、日中関係が冷え込む中で中国の在福岡総領事も出席するなど息の長い草の根の交流はいまも続 いています。




 李秀賢(イ・スヒョン)さんたちの供養にしても、「息子だけでなく、事故で亡くなった3人を供養しているというご両親の心に感動した」ことがきっかけ だったそうです。両親にしてみれば、最初にホームに落ちた人は息子を巻き込んだ張本人ですが、その人も供養するその心に動かされたというわけです。本堂で は、2種類の位牌を拝見しました。一つは事故直後に作ったもの、もう一つは十三回忌に向けて作り直したものです。最初の方は李さんと関根さんの二人だけで すが、新しい方にはホームに落ちた人の名前も一緒に並んでいました。


 拝見した位牌はもう一つあり、なんと宮崎滔天(みやざき・とうてん)の位牌でした。滔天は浪曲家としてより、日本で孫文たちを支援して辛亥革命を支えた 革命家として知られています。その滔天の生家は荒尾にあります。位牌は滔天を尊敬する山口県のある実業家がしつらえ、住職の元で預かってほしいと頼んでき たものです。生家のある荒尾のお寺に頼んだ方が、自分の子孫の手元に置いておくよりも、より確実に滔天を末永く供養してもらえるという想いもあったので しょう。その話を聞いた時、日本の人口が減り、お寺も減っていく中で、末永い供養ということをどうやって維持していくのか、そういう問題がふと頭を過ぎり ました。

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