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2013年6月

2013年6月23日 (日)

★…やっぱり、楽しい駅弁との出会い


 さて、旅と言えば、やはり駅弁を忘れるわけにはいきません。いつも可能な限り食べるようにしています。今回は3種類。まずは福山から荒尾に向かった時に「ままかりの押し寿司」と「あなご弁当」、久留米から佐世保に向かった時に「焼麦(シャオマイ)弁当」を食べました。



 「ままかり」はニシン科の小魚ですが、あまりにおいしさので手元のご飯を食べ尽くしてしまい、隣の家からご飯(=まま)を借りて来ることになるといったところから、この名前が付いたと言われていますね。ご飯に岡山県産の朝日米を使い、炊飯に東粟倉・後山の天然水を使っているというのが、今回買った岡山「瀬戸乃屋」の自慢です。通常は8切れ入ですが、今回は半分の4切れ入(525円)にしました。素材を生かすためか寿司飯の酢も薄味です。

 それと一緒に食べたのが、広島「浜吉」が出している「あなごめし」でした。瀬戸内沿線では各社からあなご物が出ていて、一本物の穴子を二本並べて「夫婦(めおと)あなご」としているものもありますが、それらは食べたことがあるので、今回は焼あなご系を探しました。それで出会ったのがこれです。蓋を開けると至ってシンプルで、ご飯の上に一口大に刻まれた焼きあなごがびっしりと乗っています。外側のカリカリ感、中のふっくら感がしっかり出ていたし、汁のご飯への染みこみ方も秀逸。付け合せの漬物もしっかりとした味で、1100円にも納得です。


 さて最後、鳥栖「中央軒」から出ている「焼麦(シャオマイ)弁当」です。シュウマイは「焼売」という時を当てることが多いのですが、中央軒はこちらは「焼麦」の字を当て、読みも「しゃおまい」となっています。それもこれも、長崎中華料理専門店の指導を受けて1956年(昭和31年)年に生まれたとされる佐賀・鳥栖のシュウマイが、一時は「東の横浜・西の鳥栖」と呼ばれた存在感をいまなお持っているからでしょう。


 弁当は正方形で、下半分が味付け御飯「かしわ飯」です。その上半分に錦糸卵、下半分に鶏そぼろが載っています。それに大きめのシュウマイが6個入っています。横浜・崎陽軒の「シウマイ弁当」をいつも駅弁のベスト3に必ず挙げてきていますが、崎陽軒の「シウマイ弁当」がご飯を含めて具材がどれも硬い食感で統一されているのに対して、こちらは反対に柔らか系で統一されています。崎陽軒の方は750円、こちらもボリュームたっぷりで700円。その価格帯でこれだけレベルの高い駅弁が揃うのですから、これからも駅弁探しは止められませんね。

2013年6月18日 (火)

★…赤星住職との再会


 福山を離れた後、熊本県荒尾市に入りました。荒尾市は福岡県に隣接する街で(人口約55000)、隣は福岡県大牟田市。その大牟田市と共に、有名な三井 三池炭鉱で栄えた熊本側の街です。市内にはいまも万田坑(坑道に潜るための基地ですね)の建物が残り、大牟田側の遺構と合わせて世界遺産への登録を狙って いるそうです。また、一昨年末に廃止されるまで、市内には競馬場もありました。



 さて、その荒尾でさっそく音楽絡みの仕事済ませた後、ある人を訪ねました。その人とは、真言宗法雲山金剛寺の赤星善弘・名誉住職住職です。御年80歳。 かつて住職の元を訪れたのが1992年の春頃でしたから、実に21年ぶりの訪問でした。もちろん、突然の訪問ですから不在覚悟です。しかし……。運良く、 住職との再開を果たすことが出来たのです。


 21年前、私は取材で住職の元を訪ねました。当時、私は横浜総局から社会部に(いわゆる事件記者系のセクションです)異動になったところ。古巣の産経新 聞はその夏の8月15日の紙面で、いわゆる「戦時中の中国人の強制連行問題」を取り上げることになり、いきなりその担当を命じられたのです。それから毎日 資料と睨めっこが続き、大牟田市と荒尾市の19カ所の収容所で作業中の事故などによって中国人と朝鮮人約700人が死亡していることが解りました。そし て……。命を落とした中国人、朝鮮人を供養していた赤星住職に行き当たりました。




 住職は1972年(昭和47年)、中国人犠牲者の供養のための「中国人殉難者慰霊之碑」、朝鮮半島の犠牲者を供養し平和的な南北統一に願いを込めた「 不二之塔 」を建立。それ以来、毎年4月12日に慰霊祭を行ってずっと供養を続けています。また、2001年1月26日、JR山手線「新大久保」駅のホームから誤っ て線路に転落した見知らぬ人を助けようとして命を落とした二人、韓国人留学生の李秀賢(イ・スヒョン=当時26)さんとカメラマンの関根史郎さん(当時 47)たちの供養も続けていて、今年も1月21日に十三回忌の法要を行っています。そう、住職は「志」の人なのです。


 取材の時、住職が言っていたことはいまだに強く印象に残っています。太平洋戦争が始まる前の1940年(昭和15年)頃から、連れてこられる中国人、朝 鮮人が増えたこと、虐待に堪えかねて逃亡する人間がいたこと、空腹を凌ぐために有明海の貝を掘って食べていたこと、そんな彼らに母親がハブ茶を振る舞って いたこと…。子供心に住職が感じていたことをたくさん聞き、また、当時の状況を知る人たちを紹介してもらって、順番に当時の話を拾って回りました。